スロウ、メロウ。

ゆっくりと、熟れう。こころにうつりゆくよしなしごとを。
ゆっくりと、熟れう。
こころにうつりゆくよしなしごとを。
「私は私自身の記録である」

「私は私自身の記録である」

始まりと終わりの間。そこに在る。
息をしている。
言葉で、息をしている。
うつりゆく此処からの景色を、書き留めてゆけたら。
とりとめもない私を、書き遺してゆけたら。



クリスマス前後の予定だった生命が、二週間早く生まれついた、その意味を時々探している。
それは、この意識はどこからやってきて、死んだらどこへゆくのか。そんなことを尋ねる、可愛げの無い子供だった。

生意気にも、こんな世界はくだらないと言い聞かせて、瞳を伏せた時期もあった。そうして吐き出さないと、そこに座り込んでしまいそうで。半ば、叫んでいた。言葉を研いで、研いで、握りしめて。どうして。何故。違う言葉で語られる同じ問いを、ずっと繰り返していた。


あれからいくらか経って、今日になった。


いつだったか、なき人に命を吹き込むのはいつだって言葉だ、というメモ書きをした。

それから暫くして「死んだひとはみんな言葉になる」という言葉に出会った。それがいい、と思った。
それから彼を調べて、驚いた。
今までに記憶している言葉の、時には口ずさむ歌の、その発端であるかもしれない、と。そう思うような言葉たちが並んでいたからだった。

そんな、同じ誕生日の、とある歌人の言葉を表題に借りる。

轍が途切れるまで。
さようならを言うまで。
私が、言葉になるまで。

世界を見つめて、言葉を編む。
どうやら結局、それをやめられないのです。

椿が、誕生花であるらしい。
奥山の八つ峰の椿、つばらかに、今日も今日とて、ここに在るものごとを記す。
日々がいつか熟して、満ち満ちて、私の記録となるように。
書きたいものを、書き留める。
スロウ、メロウ。

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