スロウ、メロウ。

ゆっくりと、熟れう。こころにうつりゆくよしなしごとを。
ゆっくりと、熟れう。
こころにうつりゆくよしなしごとを。
仮初

仮初

鳥は自由だろうか。
何を見て何を思うか。
意味を含ませていくのは
いつだって私でしかない。
貰い涙はなぜだろう、

貰い涙はなぜだろう、

五月晴れ、という言葉の意味が変わった、と聞く。
梅雨の合間の晴れの空と、五月の清々しい空とでは、含む湿気の量を含めて、その景色のなかにいる人が受け取る印象も随分と違う気がするけれど。今や五月晴れ、と呼ばれるこんな日を、昔の人はなんて呼んだのだろうか。そんなことを思う。

兎にも角にも、五月晴れが続いている。
自分の内側まで全て照らされていくみたいで、少し苦笑したりもする。それぐらい、すっとした空。


良いも、悪いもない、と思っている。物事には裏と表みたいなものがあって、どちらも合わせてそれなのだし、その性質が丸ごとすべて善悪のどちらかに振り分けられたりはしないと私は思っている。
そんな話を久しぶりに、面と向かって人とした。

生きていれば、いろいろとある。
話したいこと、そうでないこと。
それでもやっぱり聴いてほしいこと。
知っていてほしいこと。

どれほどまでに明け渡しても、きっとすべてを理解はできないけれど。
涙ながらに出た言葉の端々から、私はそれを想像する。その感情を、想像する。私とあなたはちがう人間なのに、この貰い涙はなぜだろう。

全てをわからなくても、想うことはできるでしょうか。
ながいながい、過去から未来へのあいだ、たった一瞬だとしても、優しく、添えていますように。
どうか。そう願わせてほしい。
何度も持ち上げる瞼

何度も持ち上げる瞼

まとまった雨が降り始め、窓を締め切って眠った翌朝、カーテンの隙間から射した光で目を覚ませば、部屋のなかはむっとしていて、梅雨がそこまで来ているのを思わせるような暑さだった。

窓を開けて、風を通して、うんと伸びをして。久しぶりの通勤のために、目を擦る。仕事に行くためだけにしては珍しく(勿論、いつだって最低限はするけれど)、丁寧に化粧をして。

いつもの音楽をかけて、雲ひとつない晴天のなか、川沿いの道を車で走る。朝日に川が反射して、その奥には山々がうっすらと主張して見えた。

毎日のように通っていた道を走らせていれば、二週間前には身を潜めていた花が道端に咲いていたり、歩道に並ぶ銀杏が若い葉を揺らしていて、季節が進んだのを感じる。

なんだか仕事用の敬語を使うのは久しぶりだなぁ、と話す前にふと思った。想像していたのよりも嬉しい言葉を掛けられて、いつもより数倍、よく喋ったような気がする。

自分が愉しむことを忘れないこと。
躓いてしまう性分はどうやら変わらなさそうで、だからこそ、面白がって生きようとすること。
笑うときに、なるべく嘘はつかず、心からきちんと動かすこと。
大きくも小さくもせず、等身大の感情が届くように感情を言葉に乗せる努力をすること。
丁寧に、正確に、冷静に、いつも感謝を忘れずにいること。

深く息を吸って、いつもの自分が仕事のときに心に留めていたことをひとつひとつ思い出した、そんな日。
# 白い湯気

# 白い湯気

夜の空気はなぜだか少し、透明な気がする
澄んでいて、初夏

まだ冷たい爪先をそっと擦り合わせて
待っている
ほんのりとあまい、香りと
その背中

慣れない手つきがどうもおかしくて
砂糖が焦げたりしませんようにって願うのに
早くおいでよ、
そう思ってみたりする

カーテンの向こうで
星がかがやく静かな夜

きっとまだ夜風は冷たいだろうけど
ここには
やさしい香りだけが満ちている

眠れない夜のホットミルク
たったひとつの夜に立ち昇る白い湯気
夜雨

夜雨

雨の日なのをいいことに、毛布にくるまって、随分と昔にノートに書き溜めた言葉を読み返している。煮詰め過ぎたコーヒーみたいな味がして、その拙さに思わず眉間に皺がよってしまう。
仕方ないな、しょうがない。そうやって見つめていくしかない。

秦さんのドキュメンタリーを久しぶりに聴いている。もう10年も前なのかと驚いて、自分の好みの変わらなさに少し笑ってしまう。このあとは水彩の月にしよう。きっと好きなままなんだろうなぁ。海の幽霊も聴こう。そうしよう。

見てきたもの、書いたもの、好きだったもの、好きなもの。そういうところに自分の中心をきちんと身を埋めていないと、遠慮や憚りみたいなプラス感情に潰されてしまいそうになったりする。
私は、私じゃないか。
私の言葉は、私のものじゃないか。
私の好き嫌いは、私のものじゃないか。
私のフィルタを通してでしか、世界は見えないじゃないか。

正しさとか、普通とか、日常でなんとはなしに使っている言葉を、くしゃくしゃに丸めて放り出してしまいたくなる。
腹立たしさ、悔しさ、虚しさ。自分へのそんな感情を、どうにかして昇華したくて。言葉はいつだって足りないと嘆きながら。
それでも嘘をつきたくない、と、ノートの中の私が吠えている。

大切なことは言葉にならない、そんな歌を聴きながら。
春のほころんだぬくもりと厳しさを、夏の真っ直ぐな光と浮かび上がる影を。
この切なさを、この苛立ちを、この哀しさを、この喜びを、この幸せを。
あらわす言葉を尽くしてしまうのだろう。
ふちどる容れものを、探してしまうのだろう。

そんなことを考える。
うつくしいよ、とても。怖いぐらい。

うつくしいよ、とても。怖いぐらい。

「ありふれた愛じゃない」を再読している。
一行目からもう、好きだ。
何故だか、涙が出てしまう。
「ね、美しいとは思わない?」(115頁)
そうやって私も問いかけられている気がするからだろうか。
いつもは自分が、言葉を紡いで、そう問いかけているからだろうか。
ただどうしようもなく恐ろしく、美しいものを前に、そこに絶え間ない真理のようなものを、垣間見るからだろうか。



久しぶりに、海沿いを歩いた。肌は太陽に焼かれ、熱を帯びて、海辺の強い風がそれを冷やしていく。車に乗れば数分のところを時間をかけて歩いていくと、寂れた船着場に出る。船は幾つかあるものの、人はいない。看板は黄色く日に焼けて、石畳の間からは草が生い立ち、色褪せたベンチでは蜘蛛の巣が風に揺れている。
桟橋をふと見遣ると、海のほうを向いて突っかけたサンダルをぷらぷらさせながら、少女が座っていた。私は彼女の隣に腰掛けて、少しだけ二人で話をした。

彼女は時々、此処に座り、連なる山脈に夕陽が沈んでいくのを背中で感じながら、海の向こうから夜が迎えに来るのを、じっと待っているらしかった。

日没に、空のふちが虹色になる。彼女は言った。まだ明るい西の空に、宵の明星が光り、次から次へと明るい星から姿を現す。
夜が始まる。
空がゆっくりと海と馴染んでいくのを見つめて、それらと一緒になって、自分も夜に沈んでいけるような、あるいは赤子みたいに裸になって抱きしめられているような気さえ、していた。私は、ちいさい。あまりにも。彼女はそう思った。そして、こんなにも、赦されているのに、とも思った。

目を瞑って、まだ起きていない星々のことを思う。繰り返す波が、繋がれた漁船や海辺のコンクリに当たって、たぷんたぷんと音を立てる。潮の香がそのリズムに合わせて、そこらじゅうで畝をつくっているのを感じる。

すっかりと空が暗くなり、夜気をその身に纏って、彼女は立ち上がる。それは包み込むように優しく、呑み込まれそうなほど恐ろしい。その感情は、なにも夜に限らないことだった。痛い程の雨にわざと打たれてみれば、ほんのりと暖かったとき。神社の大きな木が空を覆い、その影を落とすとき。気の遠くなるような時を経て、硬い岩に蔓延る苔の蒼さに気がついたとき。ひとはいつから彼らと離れ離れになったのだろう、と。

海辺の少女は、そんな話をした。
もう何万年も続いている水面の煌めきを見つめたあと、別れ際に彼女は言った。

「ね、うつくしいと思わない?」

しんどくなってしまったら、すべて脱ぎ捨てて、またここで会いましょう。
あなたも、私も。
ひとつの生命として、赦されていますように。
うつくしいひとで、ありたい。
ひとのゆめ。

ひとのゆめ。

最近は、ひたひたと夢を見ている。
かなしい夢だ。
これは夢だ、と思い、夜はふと目覚める。
現実と夢の違いは、なんだろうか。
そんなことを考えている。

雲が夏の形をしているんだなぁと、久しぶりに外へ出て思う。お昼寝の時に見る、窓越しの空より少し流れが早い気がして、季節に置いていかれるわけだな、となんだか納得した。

立夏。七十二候で言うところの、蛙始鳴。
朝晩はまだ冷える。風は冷たい。
暦の上では春を過ぎたというのに、未だ冬から抜け出せない、指先を擦ってみる。

先週、白いフリージアが、散った。
春になると庭に咲き、その切り花が家中に飾られるのだけれど、今年の、その最後がひっそりと朽ちた。
蕾が膨らみ、ひとつ、ふたつとようよう花開き、いらっしゃいと迎えた春の日のことを思い出した。玄関先で甘い香を放って待っている彼女に、今年はもう会えない。
茶色くなった、その花びらすら愛おしくて。そっと指で、撫ぜた。
今年も可憐だった。
さよならだね。また、待っているからね。

かなしい夢。
愛おしく、儚い。
「私は私自身の記録である」

「私は私自身の記録である」

始まりと終わりの間。そこに在る。
息をしている。
言葉で、息をしている。
うつりゆく此処からの景色を、書き留めてゆけたら。
とりとめもない私を、書き遺してゆけたら。



クリスマス前後の予定だった生命が、二週間早く生まれついた、その意味を時々探している。
それは、この意識はどこからやってきて、死んだらどこへゆくのか。そんなことを尋ねる、可愛げの無い子供だった。

生意気にも、こんな世界はくだらないと言い聞かせて、瞳を伏せた時期もあった。そうして吐き出さないと、そこに座り込んでしまいそうで。半ば、叫んでいた。言葉を研いで、研いで、握りしめて。どうして。何故。違う言葉で語られる同じ問いを、ずっと繰り返していた。


あれからいくらか経って、今日になった。


いつだったか、なき人に命を吹き込むのはいつだって言葉だ、というメモ書きをした。

それから暫くして「死んだひとはみんな言葉になる」という言葉に出会った。それがいい、と思った。
それから彼を調べて、驚いた。
今までに記憶している言葉の、時には口ずさむ歌の、その発端であるかもしれない、と。そう思うような言葉たちが並んでいたからだった。

そんな、同じ誕生日の、とある歌人の言葉を表題に借りる。

轍が途切れるまで。
さようならを言うまで。
私が、言葉になるまで。

世界を見つめて、言葉を編む。
どうやら結局、それをやめられないのです。

椿が、誕生花であるらしい。
奥山の八つ峰の椿、つばらかに、今日も今日とて、ここに在るものごとを記す。
日々がいつか熟して、満ち満ちて、私の記録となるように。
書きたいものを、書き留める。
スロウ、メロウ。